寿司ブリトー、コチュジャンのスパゲッティ、キムチをのせたタコス・アル・パストール。フードトラックの話ではありません。フォークが多すぎる店の、立派なテイスティングメニューに堂々と並んでいます。国境のないビュッフェ、とでも言えばいいでしょうか。シェフたちは何世紀分もの料理の伝統を、世界を回るDJのようにリミックスしていきます。パリのビストロと、ソウルの焼肉屋と、カリフォルニアのぶどう畑。その三つの間のどこかで、ふと腑に落ちるものがあります。フュージョンは新しくない。ただ、実験のふりをやめただけです。
ここで、やっかいな問いが立ち上がります。料理がもうどこの土地のものでもなくなったとき、ワインはどうすればいいのでしょう。
テロワール、伝統、オークの樽、ミネラル感。ワインの詩情を支えてきた言葉は、どれも「土地」に根を張っています。地理と品種と文化が恋に落ちた結果が、一本のワインでした。けれど地図はもう書き換わってしまいました。今夜の一皿はパスポートを三つ持っていて、どこの訛りとも言えない話し方をする。ボトルのほうは、必死についていくしかありません。
テロワールが迷子になるとき
テロワールは、ワイン好きがつい声をひそめて口にする言葉です。土壌、日差し、斜面、そしてなぜか魂まで含んでいる。何世紀ものあいだ、教えはいたってシンプルでした。トスカーナの料理にはトスカーナのワイン、coq au vinにはブルゴーニュ、jamónにはRioja。隣り合って育ったもの同士なら、たいてい馬が合う。互いの犬の名前まで知っている、ご近所さんのように。
ところが、世界はもうそんな形をしていません。シェフはひと息のうちに、味噌とハリッサとメープルシロップに手を伸ばします。そうして出てきた皿を前にすると、伝統的なペアリングの理屈はぽろぽろと崩れていきます。花椒の相手をしろと言われても、Chablisには荷が重い。料理が「多国籍でいたい」と言い張った瞬間、土地の料理には土地のワインという心地よい論理は、あっけなく成り立たなくなります。
ワインとフュージョン料理の、気まずい初デート
この新しい恋愛市場で、ワインはいつも上手に振る舞えてきたわけではありません。樽の効いたカリフォルニアのChardonnayが、辛い韓国のバーベキューの向かいに座る。クリーミーな自信をまとって現れたはずが、コチュジャンの熱にみるみるしおれていきます。あるいは、タンニンをまとった生真面目なボルドーが、明るいタイのグリーンカレーと向き合う。カレーはにっこり笑って、完勝します。厄介者は、だいたいこの三つです。
唐辛子の熱は、アルコールを増幅します。しっかりしたShirazやZinfandelを合わせれば、舌が攻め立てられているように感じるはず。度数が高いほど、汗の量も増えていきます。
柑橘、酢、キムチ。強い酸の前では、穏やかなワインは途端にぼやけます。切れ味を保てないワインは、だらりと生気を失うだけです。
きのこ、味噌、醤油。料理にとっては最高の奥行きですが、タンニンには手強い相手です。赤は苦く、白は妙に甘く感じられてしまいます。
思いがけない縁組み
失敗するに決まっている。そう思われた組み合わせが、ときどき見事な相棒になります。
高い酸と、ちょうどいいだけの甘み。辛さをなだめ、塩気と釣り合います。火照りを冷まし、発酵の癖を軽やかに持ち上げてくれます。
果皮浸漬の土っぽさと南国の果実味が、レモングラスやガランガルと見事に響き合います。噛み合うはずのない会話が、なぜか弾みます。
泡が脂をすっと断ち切り、果実味が甘辛いタレに寄り添います。背徳的なのに、後味は爽やか。
黒い果実と黒こしょうのニュアンスが、モレの燻香とスパイスに対等に渡り合います。ふたりの奏者が、そのまま完璧なセッションになだれ込むように。
うまくいく理由は、生まれが同じだからではありません。強さの度合いが釣り合っているから。ユーモアの質が近いから。同じ熱量を持っているから。人と同じで、料理とワインも、出自ではなく人柄で恋に落ちます。
ルールはない。ただし、目印はいくつかある
産地ではなく、熱量を合わせる。 その料理の人柄を思い浮かべてみてください。陽気か、騒がしいか、優雅か、濃厚か。Sauvignon Blancはフランスやニュージーランドである前に、明るくて、青くて、勢いがあります。だから青パパイヤのサラダやセビーチェのような、同じくらい元気のいい相手と気が合います。
辛さに敬意を。 辛みが好むのは、甘みと、低いアルコールと、果実味です。だから激辛の戦線では、いまだにRieslingとGewürztraminerが無敵なのです。
質感で考える。 クリーミーな皿には、質感のあるワインを。かりっとした皿には、泡を。天ぷらにChampagneを合わせてみれば、一口でわかります。
泡は、たいていのことを解決する。 脂も塩気も、辛ささえ切ってくれます。ごちそうの締めにスパークリングがあると幸せなのには、ちゃんと理由があるのです。
対比を怖がらない。 塩気の効いたチーズに甘口、ラクサに引き締まったAlbariño、チョコレートのモレに土の香りのSyrah。完璧さは過大評価されています。緊張感は、おいしさになります。
おいしければ、正解。 本当のルールは、それだけです。$10のロゼでも、噛み合った瞬間に贅沢な味がします。高価なボルドーでも、料理とけんかすれば色を失います。採点表は忘れて、自分の舌を信じてください。
「キムチタコスがBeaujolaisを欲しがっているなら、止める理由がどこにあるでしょう。」
グローバル化が、食卓の客になる
フュージョンはかつて流行でしたが、今ではただの日常です。棚の中は、パスポートと同じくらい混ざり合っています。醤油の隣にメープルシロップ、味噌の隣にハリッサ、ディジョンマスタードの隣にサンバル。ワインも、ようやく追いついてきました。ソウルではキムチチゲにRieslingが勧められ、バンコクでは辛い魚介にLambruscoが注がれます。シンガポールのソムリエは、ラクサにナチュラルワインを合わせて、涼しい顔で成功させてしまいます。
これは、いいことです。ワインが偉ぶるのをやめて、輪を広げはじめたということですから。ルールを暗記する遊びではなく、料理と大陸をまたいで続く会話に加わること。今のワインは、そういうものになりつつあります。
外す楽しみ
実験がすべて成功するはずもありません。思い出したくないほど盛大に外れる日もあります。でも、それも含めて楽しい。大胆に試して、顔をしかめて、笑って、次の一本を開ける。外したペアリングの数だけ、思いがけない発見に近づきます。しかも、その事故が次の潮流になることさえあるのです。誰かがある日、タコスにキムチをのせてみた。誰かがどこかで、セゴビアの子豚の丸焼きにはオレゴンのPinot Noirだと言い出した。今では、誰も冗談だと思っていません。
混ざりゆく未来に、乾杯
かつてワインを決めていたのは、地理でした。今それを決めているのは、開かれた気持ちです。好奇心です。品定めより、喜びを選ぶことです。だから次に食卓が国連総会のような顔ぶれになったときは、完璧な一本を探して悩まないでください。うれしくなるものを、そのまま手に取ればいい。世界は毎日、皿の上で混ざり、変わり、自分を描き直しています。ワインだって、その物語の登場人物なのですから。